『富美子の足』
これは他人に押しつけられた役割を捨て、自分が認める価値を手にする物語だ。
まず前提として、男が富美子の足のことをキレイとかエロいとか言って褒めそやしても、それは男にとっての価値であって、富美子にとっての価値ではない。しかも、男が評価しているのは富美子の足であって、富美子自身ではない*1。
物語の始め、富美子は男の価値観の中で生きていた。男の評価にさらされつづけたことが、彼女をそうさせたのだろう*2。しかも富美子は、男の価値観がさらに色濃い風俗業界で働いていた。そして、自分の足を高く評価した客である塚越と暮らし始める*3。
そこで野田と出会う。
野田は富美子の足を評価しない。今までにないリアクションを富美子は不思議がり、質問する。「私の足ってどうですか?」野田は答える。「興味ないね」クラウドかよ*4。これは富美子にとって大きな事件だったと思う。「この人は私の足を評価しない。ということは、私自身を評価してくれるかもしれない」だから飲んで絡みながら野田に再三再四質問する。「私のことどう思ってるの?」
で、なんやかんやあって富美子と野田は結ばれるわけだけど――これ、野田は童貞という設定なのかな? 野田は富美子を抱くことで、富美子の足の価値に気づいてしまう。野田は富美子の足を評価しないのではなくて、価値がわからなかっただけだった。子供が無修正画像を見てもグロって思うだけで、エロさを感じないのと同じだった。
これが悲劇なわけだ。
富美子は、富美子自身を評価してくれる可能性がある人間を、また失ってしまったのだから。
それから塚越と野田の興味は、より富美子の足へと移行していく。というかもはや足ですらない。足の型作りに没頭していく。富美子からしてみれば「私→私の足→私の足の型」なので、ますます自分とは関係ない。
一方で、家に帰れば、母の虐待が待っている*5。家でも外でも、富美子は自分自身を評価されない。前からそうだったけれど、野田との関係をはさんだことで、富美子はそれを自覚せざるをえなくなる。
そして、富美子は暴走する。
どう暴走するのかは実際に見てもらうとして、ラストについて触れるなら、最後の台詞が本当によかった。突拍子もないように見えて、よく考えたら全然変ではない。富美子は今まで男の価値観の中で生きてきたけれど、あれはそこから逃れられたから、男にとってのキレイとかエロいとかそんなんじゃない、自分が認める価値を見出そうとしたからこそ出てくる台詞だった。
ここまで書いたことはあくまで自分の解釈だけど、巷で言われているようなクレイジーなものではなく、とても真摯な映画だと思う。そういう意味で、去年の同時期に上映されていた、園子温監督の『ANTIPORNO』を思い出した*6。
また、他人に押しつけられた役割ではなく、自分が認める価値を手に入れる物語という意味でも、やはり同監督の『紀子の食卓』を思い出した。ライオンとウサギ。シャンパンとグラス。グラスの役割を捨てて、関係そのものから逃げてしまおう。
*1:これは「富美子」を「女」に変えても成立する。
*2:これも世の女性すべてに言えることか。
*3:塚越が老齢なので自然なのかもしれないが、一緒に暮らす家が昔ながらの日本屋敷であることも、富美子が男の価値観に囚われていることを示しているように思える。
*5:正直なことを言うと、母と富美子の関係についてはまったく消化できていない。富美子が我慢するのは母から意図せず男を奪ってしまった罪悪感か? とも思ったけれど、母の事故のシーンを見るかぎり、その時点で母は富美子によい感情を持っているように見えた。というか介護士たちが本当に気持ち悪い。うえってなる。
*6:日本における女性の置かれた状況という観点でも近しい。